私の場合、Web向けの文章と、紙媒体向けの文章は、句読点の打ち方を変えています。その話をしたいと思います。
私の中で大前提として、以下の法則があります。
――読点を打たないと意味が通じない文章は、改良の余地がある文章である。
長文であろうが、短文であろうが、読点を打たないと理解できない文章は、基本的に文章が骨折している時が多いです。そういった文章は、読んだ時に頭の中で、意味を再構築しにくいです。
読点は、文章を読みやすくはしてくれますが、破たんした文章の構造を直してはくれません。
そのため、読点を打たずとも読める文章を書いたあと、それを読みやすくする目的で読点を打つという順番があります。
小説を写経してみると分かるのですが、文章が上手いと言われる小説家の文章は、時に極端に読点が少ないことがあります。
これは、読点がなくても、頭にきちんと入る文章を書けているからです。そのため、読点が少なくても、すらすらと読めるわけです。
そういった「読点なしでも読める文章が、よい文章」という大前提が、私の中にあります。まあ、私レベルでは、実践できないわけですが。
冒頭で書いた通り、私はWeb向けの文章と、紙媒体向けの文章では、句読点の打ち方を変えています。
Web向けの文章は大目に読点を打ち、文章を細かく分割して句点も増やしています。逆に紙媒体向けの文章では、読点を減らし、文章もあまり細切れにならないようにしています。
これは、各媒体の読書速度を想定しているからです。
モニターで文章を読むと、紙で文章を読むよりも、速度が落ちます。この下落は、モニターが小さくなるほど顕著です。スマホの画面だと、PCの画面よりも、同じ文章を読むのに時間がかかります。
この読書速度の違いは、単位時間に脳に入って来る、文字数に反映されます。
読書速度が遅いと、単位時間に脳のバッファに蓄えられる文字数が、少なくなります。そのバッファ内で文字を解釈するので、長文を脳内で解読するのが困難になります。
逆に、読書速度が速いと、単位時間に脳のバッファに蓄えられる文字数が多くなります。そのため、句読点が少なくても、脳内で文章を解釈することが可能になります。
これは、実際にモニターで文章を校正したあと、紙に出力して校正し直すと如実に分かります。要らない句読点が大量に出るのですね。
なぜ「要らない」と思うかと言うと、脳内のバッファを、無駄な読点が埋め尽くすからです。文章の断片化が生じて、本来可能なはずの読書速度を阻害してしまうわけです。
そこで、最終出力先に合わせた、適切な文章サイズのフィルターを、脳内に構築していくことになります。
この、読書速度と文章サイズの関係は、読者が接するメディアだけでなく、読者の読書力や語彙力にも左右されます。
想定読者や用語の難易度によって、文章の分割単位を変える必要があります。この脳内エミュレーターを作るのが、けっこう難しいです。私レベルでは、なかなか上手くできません。
そういうことを考えたからといって、読者にとって本当に分かりやすい文章になっているか、楽しい文章になっているかは別です。
文章というのは、コンテンツの一部でしかありません。
本当に面白いネタが用意されていれば、文章が少々おかしくても、読者の方は賢明に読んでくれます。自分自身もそうですし。
それに、小説でない限り、全てを文章で書く必要はありません。図や表が適切ならば、ためらわず、それらを利用するべきです。
ただ、リーダビリティは極限まで上げたいなあと、よく思います。
(この文章は、noteに投稿した文章を修正して再投稿したものです)
レトロゲームの移植を専門におこなう会社「レトロゲームファクトリー」。その社長「灰江田直樹」と、プログラマー「白野高義」の元に、大口の依頼が舞い込んだ。伝説的ファミコンゲーム「UGOコレクション」10本の復活プロジェクト。だが開発者は最後の作品の権利を買い取り、失踪していた。一体何故か。開発者はどこか。横取りを狙う大手企業を抑え、封印ゲームを復活させよ!
プログラマー転職支援会社の社長、安藤裕美(あんどうひろみ)と、何でも屋のプログラマー鹿敷堂桂馬(かしきどうけいま)。熱血とクール、好対照の2人が、IT業界で起きた犯罪に挑むシリーズ。プログラマーの著者による、リアリズムで迫るIT系社会派ミステリ小説。
紙の本好きの文学少女が、電子書籍編集部に配属になった! 新入社員「春日枝折」は電子書籍の仕事を始める。そして、激動の電子書籍業界を体験し、そこで蠢く作家のテロに直面する。文学少女が編集者として一人立ちしていく姿を追いながら、変貌する出版界の明日を占うお仕事小説。