しかし錆びた手摺りに手をかけたその時、対岸の影は煙のように一瞬でかき消えた。
「誘いに乗ってはいけませんよ。あれは一種の死神です」
突然真横から響いた声に、ぎくりと体が硬直する。 声がした方をおそるおそる向いて――――目に入ったのは、声の主の顔をすっぽりと覆い隠す黒い傘だった。
「……死神? まさか、あの影が見えるんですか?」
「ええ。私たちは《誘い神》と呼びます。建築物や樹木、岩石、器物といったものに潜み、文字通り人を死に誘う神です」
大きな傘の下からハスキーな声が返ってくる。驚きのあまり、俺は突然現れたその人をまじまじと眺めた。大きな黒い傘の下からのぞく体は、女性のものだ。すらり均整のとれた肢体は、黒のワンピースに包まれている。
今まで生きてきて、あの類のものが見える人間には数えるほどしか会ったことがない。
大多数の人間の目には、決して映らないもの。なのに何故か、俺の視界にはやたら鮮明に飛び込んでくるそれを、世間は幽霊だとか亡霊だとか悪霊、怨霊、お化け、化け物、妖怪など様々な名前で呼ぶ。 様々な名前で呼ばれているにも関わらず、それらは世間では基本的に「実在しないもの」とみなされている。 俺の視線に気付いたように、声の主が傘を上げた。下から現れた顔に、思わず息を呑む。
「申し遅れました。私、日歿堂の玖堂東雲と申します」
若い女性だった。おそらく、俺や二つ年上だった姉と同年代くらいだろうか。
腰の近くまで伸びた黒い髪も、黒い傘や髪に輪郭を溶かすような浅黒い肌も、精巧な人形のように整った美貌も、目を引くといえば目を引く。しかしそれ以上に印象的なのは褐色の肌の上で煌々と耀く、目が覚めるような黄金色の瞳だった。