くちびるの隙間から、白い息が溢れでる。
黄色いビニール袋から、外国製のカカオ70%のビターチョコレートを出した。スーパーマーケットのロゴタイプと、歩く男の人のシルエットイラストが印刷された黄色いビニール袋。
銀紙包装の板チョコを剥く。噛むと、パキンッと気持ちのいい音がした。きちんとこういう音を鳴らしてくれる真冬の真夜中の静まり返った空気のなかで、ぼくは三角すわりで小さくまとまり、アパートの玄関前のコンクリートの廊下で夜明けを待っている。破いた銀紙のはしを折り、黄色いビニール袋へつっこむ。ビターチョコレートは舌のうえで、ゆっくり時間をかけて溶ける。
「こんばんは」
とつぜんに声をかけられて、うつむいていた顔を上げた。
隣の部屋の住人に会うのは、初めてだった。彼はごついコートとマフラーに見事に着ぶくれている。ぼくとおなじくらいの年齢の男が、静かに笑ってこちらを見ている。
ぼくはすわったまま、あいさつを返す。
「こんばんは」
「どうかしたんですか?」
彼が寒そうに肩をすくめて言う。
ぼくは立ち上がり、ほそっこくてつめたい手摺を握った。ぐっと身を乗り出して、指さす。
「そこに鍵、落としちゃって」
真下には、暗闇に沈み切って見えないけれど、植え込みの茂みがあるはずだ。
彼は手袋をはずして自分の部屋の鍵を開け、黙って引っ込んだが、しばらくしてペンライトを手に出てきて、ぼくに「どのあたり?」ときいた。
「こっち」
手摺をしっかり握りしめて、足を滑らさないよう慎重に階段を下りた。植え込みの前で彼を手招きし、茂みを指さす。
彼の持ってきたペンライトの光は弱すぎて、照らした枝を複雑なかたちの影に変えるだけで、よけい見えにくくする。彼はペンライトをやめ、ポケットからスマートフォンを出してライトを点けた。むしろこちらのほうが明るい。でも残念ながら鍵は見あたらない。
「ありがとう。もういいよ」
ぼくが言うと、熱心に茂みを覗き込んでいた彼は身を起こし、振り返った。
「朝になったら、いもうとが帰るから、それまで待つよ」
「いもうと?」彼は驚いた顔をする。「隣って誰も住んでないと思ってたのに」
「いもうとと、二人暮らしなんだ」
ミノリのことを人に言うとき、ぼくはこの単語をきっぱり発音することに決めていた。
「朝まで待つよ」
「玄関の前で?」
「うん」
「うち来ます? 散らかってるけど」
彼の親切さに、ぼくは笑って首を振った。
「ありがとう。でも悪いしいいよ」
「凍死しますよ」
彼は震えていた。外でこうやって喋っているのさえ、もう限界なのだろう。
「大丈夫、大丈夫。早く入りましょう」
「じゃあ、悪いけど、朝までお邪魔させてもらおうかな」
彼は何度も大きくうなずき、急いで建物のなかへ引き返した。
「野菜ジュースのことを思い出したんだ」彼は玄関で靴を脱ぎながら、突然そう言った。
「小学校のときさ、家に着いたら鍵がなくて、入れなくて、親も出かけてて。いまのきみみたいに三角すわりして玄関の前で待ってたんだ。向かいの家の人が、うちで上がって待ってなさいって。真夏の猛暑の日で、日射しにやられて汗がだらだら出てた。そのとき初めてその家に上がったけど、クーラーのきいた部屋に通されて、コップ一杯のつめたい野菜ジュースをくれたんだ」
隣の彼の部屋には、ぼくたちの部屋にはない、テレビや電子レンジやコミックがあった。物に溢れている。彼は手袋を脱いだ手でこたつテーブルのうえに置いていた白いリモコンを拾い、エアコンをつけた。
台所の流しにはガス給湯器がついていた。彼がスイッチを押すと、ヂヂヂヂヂと音がしたあと、給湯器のなかで小さな青い炎が同時にいくつも点るのが見えた。炎のサイズは均一で、整列していた。
勢いよく飛び出すシャワーから流し台に湯気が上がる。彼の顔を覆った。コート姿でマフラーをつけたまま、彼は手を洗い、口をゆすぐ。
ぼくもすすめられて手洗いうがいをする。出してくれたタオルは、鮮やかな赤。
「すっごい薄着。寒くないの?」
ぼくの恰好を見て彼が言う。
「寒いけど、ふつう、かな」
「おれほんと、寒いのきらいなんだ」
スーパーマーケットの黄色いビニール袋からぼくは新品のチョコレートを一枚とり出し、シンクのうえに置いた。
「これ、泊めてもらうお礼」
「チョコレート」
「さっきスーパーで買ってたんだ」
「チョコレートおれ食べないんだ、ありがとう」
彼はシンクのうえのチョコレートを持ち上げずにすっとぼくのほうへずらし、お礼は要らないという意思表示をした。
そしてバスルームの扉を開けて、蛇口を捻り、シャワーを出しっぱなしにして、水がお湯になるまでのあいだにマフラーを取ってコートや服を脱ぎ、裸になってバスルームへ入っていった。
ぼくは冷蔵庫を開けた。シンクのうえから板状のチョコレートを取り、スライスチーズとカニかまぼこの隙間にすっと差し込んで冷蔵庫のドアを閉じた。
バスルームから彼が出てくるころには、部屋は幾分かあたたまっていた。彼は爽やかに笑いかける。
「きょう、飲み会でさ。職場の送別会。けっこう酔っぱらったから、さっききみを見たとき幽霊か幻覚かと思ったよ」
少しも酔っているふうには見えない動作で彼はテレビをつけ、出しっ放しの二リットルペットボトルからミネラルウォーターをコップに注いで、こたつに足を入れる。
「シャワー浴びる?」
「出かける前に入ったから」
「あ、歯ブラシあるよ。ホテルのやつ」
そう言って流しの下を開けて、奥のほうから使い捨ての歯ブラシを出し、ぼくに手渡した。彼が出してくれた柔らかい素材のズボンに穿き替えた。毛布を二枚貸してくれた。茶色い毛布とオレンジの毛布だった。こたつをすみに追いやって、床に一枚毛布を敷き、二枚目の毛布でからだをくるんだ。壁際によせられた、コミックが並んでいるカラーボックス。そのうえに、ジャムの大きさのガラス壜が置かれているのを見つけた。ガラス壜には細い棒が十本ほど差してある。
「これは?」振り返って、ベッドで丸まっている彼にきく。「色違いのポッキーみたいのがたくさんある」
目をつぶっていた彼は振り返り、まぶたを開けると、「お香だよ。色によって匂いが違うんだ」と言った。
もう眠そうな彼はベッドから立ち上がり、カラーボックスのうえの壜のなかからターコイズブルーの一本を選んで、白いプラスチックのライターで火を点ける。お香のさきからほそく煙が上がる。
「それ何? いま点いたやつ」
彼のくちびるがその名を告げる。
「Rain(レイン)」
雨音がきこえてくるかのようなその匂いは、ぼくの記憶をかき乱した。
いつかの出来事を、思い出せそうで、思い出せない。たしかに体験したことのある、もどかしい既視感。胸の痛みばかりが、リアルに想い起こされる。とほうのないせつなさは、皮膚感覚として覚えている。
「すごい。本当に、雨の匂いがするんだね」
そう言いながら振り返ると、ベッドのうえで彼はもう寝息を立てていた。